藤田俊哉さんの絵 ~ 「自然」との間合いについて考えてみた ~
私は、病院のベッドの上にでも寝起きをしているのだろうか?
それにしては、私の想像力は、嵐のように豊かだ・・・。
私の 居る場所は、他の人々とはずいぶん違っているようにみえる。
だから視線は多分私だけのものである。
しかし、私は、いま「現代に生きている人」のように、先ずは「現在の」外の自然や
人々をながめているはずだ。
ここで、窓の外を眺め、「自然」というものが私にどのように現れてくるのか、という
ことを、私は多分強く意識している。
その強い意識を自覚しているに違いないのだが、結局は自分の視線が自分のものである
こと、そうありたいものだ、ということが最後には浮き上がってくる。
窓の外には大きなビルの陰影があって、私の頭の中に「矩形」を切り取って顕れている。
遠くを眺めれば、風景というものもまたこの「矩形」のシルエットが提供したその内側世界に現れてくる。
ああ・・・この窓も、入り口のドアも、矩形だ・・・。
スケッチブックも、キャンバスも矩形だ・・・。
私達の観念世界は、視線の赴くところ、常に「世界というものは矩形の内部に在るものなのだぞ」とばかりに、執拗に語りかけてくる。
「自然」は私達にとって、そのように在る他はなかったのか? と問いかけると、
画家達からは、「いや、そうではなかっただろう」・・・という声が聞こえてくる。
たとえ四角いキャンバスの世界を眼の前に見ていても、もっとはるかに広大な外の自然は、
世界の存在の基礎的なものとして、この矩形の観念の内側にまで、あたかも世界の主人のような顔で、割り込んできた。
人々が用意したチューブの絵の具の限界を笑い、
自然は、画家達のキャンバスの、四角い小さな観念世界を打ち砕くように、幾枚もの自然の写しを繰り返し描かせてきた。
今も、多くの自然作家が苦闘している。
「自然はこのキャンバス上に、観念を食い破って、あふれる水のようにおしよせて来ているぞ・・・」と。
しかし・・・、藤田さんは、どこかの岐路で、その道には別れを告げたのであろう。
実は、そこは大きな自然解釈の分岐点であったと思われる。
私のキャンバスという矩形の世界には、逆に「私の観念世界しか」もともと、はいってくることができない領域である。
「自然」は、自明にも私のキャンバスの外にしか存在できない。
そのような世界として、矩形も、矩形内部に置かれた景色も静物も、赤も黒も金色も、「非自然」という観念的に構成された私の世界の内部にある。
「自然」というものは、もとより藤田さんの絵の「矩
形の内側に入ってくることは許容されていない」。
だからこそなのだが、「自然」というもの、その住処
は、「私達の観念の外の、そのような距離に在る他は
ないものなのだ」と、
私は確信をもって自然の、基礎的な驚異と不思議と
いうものを語ることができる・・・。
「自然」は、この矩形世界(キャンバス)の背後の彼
方にこそ、くっきりと在る、そういうものだ。
従って、「矩形」「赤・黒・金」等による観念的構成
でキャンバスを満たし切ることが、私の自然描法に
は必要なのである・・・。