私は、一度 何もない空間を想定してみなければならない、と思った。
皆無・・・という語が頭に浮かぶ・・・。
知る限りの「無」を想像しようと思った。
あるいは「絶望」の様なことを考えた。
救いを待っているだけの、しずかな「孤独」を考えた。
世界がだんだん遠ざかっていくような、めまいを追ってみた。
そして、やっと「物語」を考えることができる、
そういう瞬間が現れる、という予感が起きた。
乾いた砂がどこまでも、幾日も続いていた、そういうある朝のことだ。
それまで、その世界に水は無いのだ・・・、としか思えなくなっていたが、
ついに私は目撃したのである。
その箱の底に、うっすらと、見落としかねないほどの、湿りがみとめられたのである。
すでに私は、おかしいではないか、と思うようになっていた。
一体どこから 湧いたのだ?
ここには、砂漠の乾燥しか見えないのに、この微かな水気はどこから来たのだ?
同時に、私は、体中に水を蓄えた生き物の形姿を想い描くこともできた。
私に向かって、
何事かをささやくことができる、
私に対峙する存在がいるぞ、と私はおののき、興奮した。
待ち望んでいた、水気の出現は、不可能を超越して私の前に、そのようにやって来た。
いま目覚めたばかりの、その生き物は、
あなたと似てはいるのだが、あなたではない、「私は私なのだ」・・・、
そのように現れてきた。(上図)
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
藤さんの絵から、かれらの呼吸がはじまる・・・。
私達の日常に、生き物の主体 ではないように そこに、あるいは ここに ただ在った、あるいは ただ在る だけの
ものたちが、
実は、一個の主体として居るのだぞ、というように、
・・・自ら動き出す存在として、
そういう呼吸をはじめる・・・・・。