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小澤先生の思い出
文 ことのは 宇田川 靖二
もうずいぶん前の話になる。
小澤先生が体調を少し悪くされて、リハビリも一段落という頃だった。
陳喜明さんの提案で、杉村氏、私(宇田川)で、小澤先生を囲んで河口湖まで4人で一泊旅行をしたことがある。
二日目、「忍野八海」へ立ち寄る途中であったと思うが、あるレストランに入り一休みした。
緑ケ丘高校時代、杉村氏と私は同期(高17期)、陳さんは一年先輩で美術部の部長をしていた。
サークルが機能していたのは陳さんが部長の仕事をまじめにこなしてくれていたからである。
杉村氏は一番芸術家肌だったという印象がある。
他に、高橋、村木という私の同期が一緒にいのたが、今は付き合いが途絶えたままだ。
陳さんと同年で、すこし近寄りがたい「素敵な上級生」に大村(当時世良)さんがいた。
そのレストランで食後の小休止の時、先生は椅子の背に寄りかかりすこし眠っているようであった。
一瞬のその風情が私の眼に焼き付いている。
先生の人生が、その姿のうちに一挙に投影されたかのように思えた。
それは、「波乱」を通過してきた後の黙然とした石のようで、しかも不自然な屈折や妙な力が全く感じられない表情であった。
緑ケ丘高校の近くの小澤先生のご自宅で、高橋、村木と私の三人で、先生の若いころの話をうかがったのを覚えている。
先生の若い頃の話というのは、例の戦争の最中あるいは終戦直後のことなどである。
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軍隊に入ること自体は、さほどの違和感を持っていたわけではない。
しかし、ある時自分と同じ若い見習いのような兵隊が、上官の理由のないリンチにあい死亡してしまった。
今でいえば単に「いじめ」としか言いようがないものである。
目の前でそれを見ている他はなかった。
数人で医務室にかつぎこんだ時、「階段から落ちました」と説明したが、
「ふざけたことを言うなっ!何があったのかそんなことははっきりしている!」と軍医に一喝され、その顛末を語った。
軍の内部で大問題にもなったのだが、結局「名誉の戦死」で処理されることになった。
彼の両親が田舎からでてきて、むしろ平身して遺骨を受け取って、低頭してその田舎へもどっていった。
その出来事に嫌気がさし、どうしても軍隊から脱走したくなった。
兵舎の周りには高塀があり、それに手をかけて思いきりよじ登ると外の景色が目にはいった。
向こうの方に一軒の家が見えた。
夕飯時の団欒とも思える様子がそこにあった。
自分の家族が責められるだろう、脱走は思いとどまらなければ、と思った。
君たちには、こういう話はショックだろうねえ。
私達は黙ってうなずいた。
そして、特攻隊に志願した話もその時に聞いた。
その時の上官はなかなかの教養人で、敵のものであろうと何であろうと、残り少ない人生なのだから、いい音楽をたくさん聴いておけと語り、おかげで珍しいヴァイオリンのレコードなどずいぶん聴くことができた。
その後の経緯は覚えていないが、なんとなく埋めることはできる。
戦後になった。
・・・・・。
先生の、純な、そしてまっすぐな青年時代の話は夜明けまで続いて、そして早い朝食をいただいて、私達三人は先生の家を辞したのだった。
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この小旅行の帰りには、急なことながら横浜の大村さんのステンドグラス工房に立ち寄らせてもらった。
ご自分のかっての生徒が作家として活動している姿に接するのは、先生にとってやはり嬉しいようだ。
そういえば、この時よりもっと前のことだった。
また別のご病気で横浜の市民病院に先生が入院されていた時、同じ三人で見舞いに出かけたことがあった。
病室から散歩に出ている、との話であったので、私達も建物の外に出た。
異口同音に「海の方に行ってみよう」と三人が言った。
そして、海の方からこちらにもどってくる先生の姿に出会った。
私は、いま八王子で、半ば趣味のようにギャラリーを経営しているのだが、横浜の埠頭の一角を切り取った小澤先生の小さな油彩画が壁にかかっている。
訪れる人がよく「これはいいねえ」と語ってくれる。
2014年9月29日 宇田川 靖二