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ヒロコ ヒルトル





ヒロコ ヒルトル

ヒロコ ヒルトルさんの絵・・・色彩について
文 ことのは 宇田川 靖二

ヒルトルさんの絵を最初に観た時、作者は女性であろうとすぐに感じたものだ。
色彩が温暖な体温となって、調和の世界へとやってきている。
絵を観て、そのまま「作家の意識は色彩で満ちている」と思った。

色彩とは何だろうか、と考えてきたのだが、どうも難しい話である。
「自然の空間性」に意識が引っ張られるのだ。

私達が、赤・青・黄・白・黒・・・など、昔から親しみ、あるいは恐れ、唄ってきた色彩というのは一体何であろうか?

もしも「色彩」がなかったらどんなに寂しいことだろう。
もしも「メロディー」がなかったらどんなに寂しいことだろう。
この二つはどこか似ている。
その理由は、恐らく「非自然的な空間性」として色彩をイメージしているからだ。

私達は様々な色彩に出会う。
だが、その色彩の舞台を「多様性」ということばに置きかえたとたんに、色彩という世界が隠れてしまう。

私達は、むかし、次から次へと赤に出会い、そして青に出会い、黄色に出会った。
そして、出会いの際には、いつも感嘆の声をあげたのだった。

あ、赤がみえる!
あ、きこえる!
あ、唄える!
あ、できあがったぞ・・・!

この興奮は、月日と共に蓄積されていった。
そして個人史をつくりあげた。
私達は、多様な出会いの際に体験した感嘆の、その宝庫をつくりあげてきた。
色彩にともなう楽しさの原点はここにあり、私達の色彩とはその多様な存在との出会いの興奮を抱懐しているのだ。

やがて出会いの際の興奮がおさまると、今度はじっとそれを見詰め続けたくなる。
そして、赤・青・黄色・・・の背後に「影」(あるいは鏡像)という奥行(空間)が観えるようになる。
ここで言っている「影」は「非自然的奥行き(空間)」を意味していて、心の空間と言い換えてもよいものだ。

その「影」が出現した時、色彩自体は「影」と独立して姿をとどめる。
そして、色彩自体は私達の前に、心の世界(影)を連れてやってくる媒体となった。
それは出会いの興奮の宝庫を私達の前に展開する力を持っている。
それゆえに色彩は降るように私達に楽しさをもたらす。

この絵には、色彩が朱色の様々な調子となって現れている。
一人の母親という女性性の情感が影となって控えているのだと思われる。
色彩は常に、心の奥行(空間)の世界をこのように伴いながら現れる。
ここでの朱色は、ヒロコ・ヒルトルさんの色彩になる。
私達は、その作家の色彩の歴史性に出会っているのである。
ヒロコ ヒルトル

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