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松方俊さんの詩(2)「鴉影」







松方 俊さんの詩(2) 「鴉影」
文 ことのは 宇田川 靖二

1、
この「鴉影」という詩は、詩そのものを表現している、といってよいのではなかろうか。

「出会い」ということは、時と場合によって様々だ。
しかし、どんな「出会い」でも基本的に差異はない。
なぜか?
すべては、ある繋がり方をして、一点を目指しているからだ。

山を歩いていて、ただの野草に目がとまる。
それは誰の注意を惹くこともない・・・。
私達は、その時の感慨が、あらゆる人々を貫くものだと感じている。
そして、詩の唯一の根拠がそこにあることを信じている。
詩の根拠というものは多数存在することはない。
ただ一つだ。

なぜ、詩の根拠という言い方をしなければならないのか?
すべてが詩に集約されざるを得ない、その詩の「芯」だからだ。
同時に、「芯」は詩という姿で現れる他はないからだ。

だから、さらに語れば、政治学も経済学も美術もスポーツも哲学も、・・・・・すべて、詩が見えた!という地点まで、掘り進まなければならない。

詩は自分の根拠が、自分に姿を与えた、そういう世界である。
その姿はどのような世界内部において見ることができるのか?

自分(詩)の根拠であり、すべての存在と繋がっているその詩の世界とは、他者と、一体どのような繋がり方をしているのであろうか?

2、
私が往来に立っていると、陽が私の影をつくる。
影は私と同時に生まれ、私との関係において生まれ、不可避に現れる。
世界は、この「影と本体」という関係ででき上がっている空間である。
影とは、鏡を見た時の、鏡像だといってもよい。

影は、物質物理の法則から離れ、生命の法則から飛躍し得た。
そして、人は「影と本体」という関係世界にやってきた。

 * もう誰が憶えていてくれるのだろうか
   あの人達のことを

この詩の作者は、あの人達の、「影」を見ている。
すでに、「影」は実体ではなく非実体であるにも関わらず。
「影」が詩人から切り離されることはない。

「影」が、詩という姿をまとう時、
あらゆるものの繋がりは強固になる。
それは、神とか、普遍という比喩を生んできたほどだ。

詩の根拠とは何か?
母鳥が身を挺して子を守る、その理由のうちに棲んでいる。
草食動物が、仲間を助けようと猛獣に襲いかかる、その理由のうちに宿っている。

それが浮上するには、詩に転成しなければならない。

この「鴉影」という詩が、詩そのものを語っていると、私が考えるのは、以上のような理由からだ。

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