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近藤 満さんの絵





近藤 満作品

近藤 満さんの絵 「意味をめぐって」
文 ことのは 宇田川 靖二

近藤さんの、その絵に漂うものは、「何かを希求している」ということだ。
そして、その希求には、「休み」がないように思われる。

多少とも、これらの絵について「言い当てた」という気がする時が、もしあったとしたら、どのようなイメージを語り得る時だろうか?

風景を前にして、探索している対象は何か。
それは湧き出してくる何ものか・・・である。
あるいは、意味合いが湧いてくる・・・と、そのようにでも言えばよいのだろうか。
あるいはまた、意味合いを作り出しているのだ、とでも語ればよいのだろうか。

人は、およそ、まずは疑問があって、それから答を探そうと考える。
だから、疑問を持つことができないとすれば、それは一種の危機のような気がするのだ。
疑問を持つ事が先ず一番先である、か?

私達が経験してきた多くの学校にあっては、あらかじめ答が決まっている問題が提出され、それに答を出すように要求された。
この場合は、答が先ず一番先であったというより、「答→問題→答」がセットで先行していたようなものであろう。

しかし、実際には、誰もが、そういうこととは性質の違った問題にぶつかって来た。

もし、外国人に「椅子の意味は?」と問われたとしたら、その場合は「椅子の概念」をもって答とすれば適当な話である。
それは、「椅子とは人が腰掛けるもので、しばしば足が4本で・・・」というような具合の答え方である。

しかし、「人間の意味は?」とか、「人生の意味は?」とか、問われると、誰にしてもはたと立ち止まってしまう。
この時、「人間の意味は?」と問うている人は、何を要求しているのであろうか?
この場合の「意味」とは何であろうか?

この「人間の意味」という場合のような性格の問を、例えば「椅子について」問うたとしたら、勿論概念的な答え方では的がはずれる。
「椅子とは何か?」
概念的な答以外の答が要求されているような、そういう問い方の疑問に直面して、私達は何と答えればよいのだろうか? と考え込む。
それは、未だ知られていない、何か、あらたなイメージを、作り出しつつ答えなければならないという性格を帯びている。

ここに、芸術という名前、その他で呼んできた或る領域が存在することがわかる。

私には、次のようにみえる。
恐らく、作家・近藤さんは、「先ず、答えよう」としているのであろう。
その時、答えようとするからには、その前に問があるはず、であろうか?
そういうことではないようだ。
問よりも前に、「先ず、答えよう」としている心の構えがあると考えてよい。
それから、「答には、予め問があるはずだ」との、次のページや、あるいは感慨のようなものが後から追いかけて来る。

作家、彼の起床は、「答えよう」「答えなければならない」という意志の覚醒から始まる。
そして、眠りに落ちるまで、そのトーンが維持されようとする。
答えようとする意志の内に、疑問の存在を手探りする。
人の、この姿は、ある種の「タイプ」を作っている。
こうした生き方に入ってしまった人々について、私達は特別なイメージをこしらえている。

作家は、先ず、描か(答え)なければならない。

こうした表情のようなものが、近藤さんの絵から漂ってくる。
「彷徨う」というより、もっと「意志のようなもの」が感じられるのは、そういう絵だからであろう。

ある線を越える状況でイメージするとすれば、こういうことになるだろうか?
ぐるりを敵に囲まれて絶望を強いられている時でも、リーダーは同胞に「先ず、展望(答)を用意してやらなければならない」。
作家は、そういう世界の人々の友人であろうと願う。



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