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山岸徳巳さんの絵






山岸徳巳さんの絵 ~ 存在の色・色の存在 ~
文 ことのは 宇田川 靖二


山岸徳巳さんは、密度の濃い色彩の絵を描く人だ。
その色彩の地肌には、「眼の触覚」とも言うべきものを覚醒させるような魅力がある。

山岸さんが、「切り立つ岩のかたまりのような海岸線」をみている。
そして、彼は先ず24色の絵の具を手にする。
24色のチューブの絵の具の色は、謂わば「客観色・普遍色」であり、その「観念色」は、さほど私達の「眼の触覚」を刺激しはしない。
  
彼の眼に映じている「切り立つ岩の塊」は、決してチューブの絵の具の「茶色」でもなく、「黄色」でもない。
それは、遠くの空から及んで来る鈍い灰色を含んだ「岩の色」であり、まさに、そこの岩だけが、その時に持つ、「存在の色」だ。

雲の流れにともなって、影になったり、雲間から洩れてくる陽のゆるやかな明るさが変化したり、その岩の塊の表情は、しきりに彼を誘い、あおる。
まことに何者がこの風景の背後にいるのであろうか。  
それだからか、波の音があるいはその聲のようにも聴こえてくる。

私達のどこが、存在の、その重さ、固さ、その不動さ、を捉えるのだろうか。

海岸線は、彼の視線を時間とともに揺り動かす。
彼は24色の、謂わば「観念色」から遠く離れた情感の嵐、そのLIVE(ライブ)の最中に在る。

24色の「客観色・普遍色」の絵の具は、キャンバスの上で、一体どのように情感の嵐、そのLIVE(ライブ)の最中の世界に変化を果たしたのであろうか?

あくまでも、彼の脳裡においてその変化が起きてはいたのだが、むしろ、この変化とは、具体的な、個々の岩の塊そのものの、充実した「存在の質」をもった色への変化なのだ、と表現したらよいだろうか。

その意味では、彼の絵の色彩は、「観念の世界には存在しない実質」をもっているのだ。

作家はそこで、嵐に身を委ねる。
そして、こう唱える。
「この変化には、『絵の具自身の存在の質』が、変化しなければならない」。

あたかも、その色の変容は、
陶芸作品の、固い地肌そのものが変化したような、
「観念色」ではない、固い実体をもった色、要するに「釉薬の変容」と同じような意味での色の変容なのだ。
その質感は、眼の触覚に訴えてくる。(↓下写真)
  
ペインティングナイフや筆が、固い岩の地肌を盛り上げたり削ったりするように、彼は絵の具の層を重ねる。
その作業の痕跡としての色彩を私達は観ることになる。
それは、風景を写真のように再現するために絵の具を使用するのとは基本的な違いがある。

こうして、彼の作品が、密度の濃い色彩の絵に仕上がってくる。

私達は、分析の膨大な時間を費やして、一度、風景を24色(観念色)に抽象化した。
だから、再び、24色を混合し、配置をくりかえし、風景のLIVE(ライブ)へと還帰(帰一)する作業をしなければならないのだ。




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