● 少女が風と会話し、風と戯れていた頃の話である。
季節の中にも、日々のドラマの中にも、一日の様々な瞬間にも、風に抱懐されていた。
激しさの中にも、風を観ていた。
その少女が、後年、女流画家を志して、よく風を描くようになった。
そして風との対話を、たくさん思い出すことができている今、彼女に風の絵画イメージはあふれてくる。
絵の中で、木の葉や草々を風がゆする。
その風が、作家の「情感」(心)の化身であれば、風は、作家の内側から吹き起こされてくるものだといってよい。
内側からの、その「情感」(心)が、木の葉や草々をゆすり、ささやいて通り過ぬけてゆくのである。
絵の画面では、「情感」(心)も風も存在しているが、勿論、「情感」(心)も風も直接眼には見えない。
木の葉や草々の顫えが、「形」のある世界として見えているのだ。
以上の話には、二つの異質な世界が含まれている。
ひとつは、見えるのか見えないのか?という世界。
木の葉や草々は見えるのだが、風自体や「情感」(心)自体は、見えないということである。
もうひとつは、「実体」か「非実体」か?という世界である。
木の葉や草々のみならず風もまた「実体」なのであるが、「情感」(心)は「実体」にかかわるけれども、「非実体」であるということである。
● 子供の頃聞いた歌に、次のような「風」というのがあった。
誰が風を 見たでしょう
僕もあなたも 見やしない
けれど木の葉を 顫わせて
風は通りぬけてゆく
*イギリス、19世紀の詩人クリスティナ・ロセッティの原作。西條八十訳
作曲:草川 信
勿論、この歌は、存在しているのに直接その姿を見せないものへの興味を歌っているのであろう。
あるいは、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏の富士」という有名な絵がある。
多数の波の形状イメージから北斎が絵画イメージに創りかえたものであろう。
海水は見えるのだけれども、液体であるからには形がない。
北斎が、この時、波を観ていたのではなく、海水を観ていたのなら、(形がない)海水に、形を与えたことになる。
海水の無形に対して、波の有形を与えたのであるから、風の歌と意味する内容は同じである。
北斎の波の形は、木立の揺れる有様、草々の騒ぎ方の様子と同じ位相にある。
このことは、視覚世界に限ったことではなく、知覚世界全般にまで話を広げてもよいことになろう。
しかし、樹々や草々と同様に、風も海水も「実体」の世界に現象するものだ。
形はないものの、「実体」であり、それらが「非実体」だというわけではない。
もし、北斎が「情感」(心)というものを観ていたのなら、「情感」(心)に波の形を与えたことになる。
「情感」(心)という「非実体」は何だろう?
ここで「非実体」と言った時、「実体」の否定という意味しか、私達は与えていない。
「非実体」とは何だろう?
● 作家の「情感」(心)と樹々や草々とをつなぐ存在として、風が吹いている。
作家の「情感」(心)と樹々や草々との間を風が渡る。
もし、風という「実体」が無かったら、作家と樹々や草々との関係は消滅するのか?
「関係という存在自体」が無になる、という意味で、何も無くなるのであろうか?
そんなことはない。
ただ、(眼に見える)絵画ではなくなるのだ。
そこに、「非実体」としての関係は残っている。
その関係は風という「実体」をまとうことによって、そしてさらに、樹々や草々の姿に仮託することによって絵画になる。
この「非実体=関係」は、「実体」と同様に複雑緻密な存在の世界にあって、私達に、「情感」(心)の世界自身を含む、その他との関係をひらいてみせる。
この「関係」という存在は、「非実体」であるから、「関係概念」でしか捉えることはできない。
この時、「実体概念」はむしろ邪魔なものである。
認識上、そういう存在なのである。
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