考え事に浸りたいと思ったような時、私はしばしば、いわゆる喫茶店にゆく。
ある程度、客を自由にほっといてくれる店がよい。
京王八王子駅より徒歩1分ほどの所に、「ねずみのこと」という変わった名前の「コーヒーショップ」がある。
ここは禁煙ではないという意味でも、昔風情の店のままである。
よくカレーとコーヒーのセットを注文する。
2Fは小さなギャラリーになっている。
その点では私と同業者的な関係でもあるので、情報のやりとり等のお付き合いも生じている。
マスターとマダムは、八王子駅周辺が、これほどの賑わいになるとはとうてい想像できなかった昔から、ここでこのコーヒーショップを始めたらしい。
私は、地元のミニコミ誌の「はちとぴ」とか、「DAYS JAPAN」という写真誌を手にとって、ウォーミング アップにはいる。
「はちとぴ」も「DAYS JAPAN」も、私はそこで、いわば「詩の種子」に触れ、そこからインパクトを受容しようと思っているのである。
壁と天井に、大野順子さんの大きな日本画がかかっている。
この店の娘さんである。
彼女が描いた一点を、拝借して私のギャラリーに展示させてもらったことがある。
彼女の絵はしばしば、人物が眼を閉じている。
「どうして眼を閉じているんですか?」と聞く客がいたので、「作者は、画面全体が眼だと考えているのだと思います」と答えた。
その話を当の順子さんにしてみたら、何となく了解した表情を示した。
私が考え事をしたいと思った時は、少しづつその気分にはいりこんでゆくというプロセスを踏む。
居心地のよい環境世界に自分が馴染んでゆくという手続きが私には必要らしい。
一気に集中するわけではないのだ。
スポーツの勝負における集中力と集中力の烈しい闘争というイメージでもない。
私は、恐らく、空気がすべて同質化してゆくような、ひとつになる感覚を待っているのであろう。
ばらばらな個物が、謂わばいろとりどりの多数の色彩が、ひとつの世界に転成・跳躍するということは、そもそもの始めからくりかえされてきたことだ。
遠く彼方まで、それは一貫した唯一の原理であろう。
だからこそ、私達の意識は、その超越態の出現という有様をただひたすら巡るのだ。
作画も、考えるという作業も、そういう意味で同じことをしているといってよい。
そういえば大野順子さんの写真の個展を、2Fのギャラリーで観たことがある。
作品の画面は、色彩が沈んでいて、透明な微粒子に満たされた、穏やかな空気感に統一されていた。
そして、その静かさは何かを待っているかのようであった。
恐らく、自分が動いているのに、自身が気づく、
その瞬間を待っているのであろう。
いい集中の持続力だと思った。
都立芸術高校 美術科 日本画専攻。
喫茶 ねずみのこと 店 2Fにて ギャラリーを経営。
かたわら 日本画制作。
八王子市在住。