柴田紀子さんの作品 ~4人展 Ⅱ 於・ことのは~
文 ことのは 宇田川 靖二
自然というものが、私達のすぐ傍に現れて来た、と思える時がある。
例えば、あの、森である。
森は、その木立や独特の空気や、隠れた生き物達を、その世界の内に抱え込んでいる。
それだけではなく、私達よりもっと大きな射程で、あるいは逆にもっと小さな射程で、想像し得る限りの自然的世界を私達が感じようとした時、その広がりの感覚をも、十分に彼方まで誘ってくれる。
森の木立の一つ一つに囁きかける声は、遠く、いづれからやってくるのだろうか?
朝夕にそそいでいる光に馴染んで、また夜のあいだにしても、彼らの呼吸は休むことを知るまい。
その一本の樹に目を留めて、或る小枝の傾きに、作家が飽くことなき視線を注ぐのは、そうした個性の無限性を抱える、森という不思議に捉えられたからだ。
樹々は、小枝達は、個性としての自己を主張している。
柴田さんの作品には、一つとして平行線や同じ平行な面は見られない。
それは小枝の一つが、個性(独自性)として自己を主張している、そういう理由が、背景にあるからだ。
あえて、森の木立の数本が作る世界を取り出してみて、その細部のいずれもが異なった存在としてあり、それらに愛着を感じざるを得ない、とすれば、その、「細部の息づかいまでをも、見える世界に浮上させよう」という、作家のその企ては必然的なことだ。
そこには、同じ面を二つとはつくらない、という決心が要る。
(同じ平行面でなければ、それらの個性達は見落とされずに必ず視界にはいるはずである。)
直方体の作品台を見てみればわかるように、作品台は線も面も同一・平行であり、個性は問題にされないものである。
作家の、同じ面を二つとはつくらない、という決心とは、この立体の合理性に終始逆らおうとすることである。
あるいは、超えようとすることである。
森という静謐は、無数の矛盾とか非合理性の結晶だと言えようか?
それなら、森という自然の調和と、この非合理性とをつなぐもの、それが、一つとして同一・平行ではない線・面の彫リ出しという行為なのだ、と考えられよう。
作家が、素材の木に向かう。
あの森の独自性の集合を想いながら。
同一・平行の線・面を拒否するように、鑿をいれる。
森の交響が身体を伝わる。
この時、彫ることの、むつかしさと愉しさが交錯する。
観るものは、この作品を見詰めていると、「細部の息づかいまでもが、見える世界に浮上してくる」のを目の当たりにする!
作家の、「彫・刻」の、その後を追いかける愉悦を、私達はこのように体験することができる。
私達も木立のような自然の内側にいる存在だ、という認識がやがてやってくる。