「進化の意味=意味の進化」
文 ことのは 宇田川 靖二
印象的な、一瞬の「欲動のイメージ」から始めよう。
ある日、何気なくテレビの前で、ある「動物番組」を観ていた。
舞台はアフリカの原野である。
TV映像ではよく観慣れている「ガゼル」という草食動物が、猛獣のライオンに追われている。
やがて、一頭の「ガゼル」が、水辺までは逃げのびてきたのだったが、ついに捕まった。
ともに必死である。
「ガゼル」の他の仲間は、どうやら助かって、捕えられてしまったその仲間の一頭を、遠巻きにながめている。
ややあって、ある瞬間、思いがけないことが起きた。
数頭の「ガゼル」が、そのライオンに襲いかかったのだ。
「ガゼル」の予期せぬ行動に、ライオンもあわてている。
そしてカメラも釘付けになった。
その結果は、ついに救出までには至らないようであったが。
この光景をめぐって、様々な想像が脳裏に広がる。
第一に、「動物性」と「人間性」という言葉の差異が、かなり怪しいものに思える。
肯定的な、好ましい意味での、「人間性」という言葉は、すでに「人以前」の「ガゼル」からあてはまっていると言えそうだからだ。
こういう観点から問題にした時、(人間性等という)言わば「意味の世界」から生物が考えられているのだから、私達は、「自然科学」や「ダーウィン進化論」などが対象にしている世界を見ているのとは、また別次元の視線に立っていることになる。
「意味の世界」という「観念世界の内側に」私達は立っているのだ。
そこで必要なのは、自然科学上の厳密さではない。
だから、例としては「ガゼル」ではなく、「ガゼル」と同様の行動が見られる他の哺乳類や鳥類等のいづれでもよい。
ここでは、「ガゼル」が、ただその「草食動物性」を代表しているだけである。
「ガゼル」は、仲間に対しての「親愛(性)」というものを示した。
その、仲間に対しての「親愛」というものを、そもそも誰から、「ガゼル」は教わったのだろうか?
「ガゼルは、当のライオンなど猛獣から、家族の親愛という形でそれを受け継ぎ、群へと押し広げたのだ」というのが、答としてふさわしいであろう。
なぜなら、微生物からやってきた私達生きものの経緯からすれば、「肉食の猛獣から草食動物へ」というふうに、「意味としての進化」を並べてみればそう考えられる、
と思われるからだ。
草原に仲良く寝ころぶ「猛獣一家の親愛」が、「ガゼル」によって、類的な、「仲間どうしの親愛」へと飛躍した。
もう一つ、猛獣達に見られる顕著な現象は、家族において、兄弟どおしが子猫のようによく遊ぶということだ。
この場合、「遊ぶ」というのは、「いわゆる動物性(自然)」からの「自由」を意味している。
さてそれは、どういうことか?
生物は、微生物から、やがて「虫」というレベルにやってくる。
例えば、「蜘蛛」の「意味」は何であろうか?
夜、通りがかりの木立に、「蜘蛛」が巣をはってじっと餌を待っている、その「孤独」な姿に気づく。
一見「孤独」にみえる「蜘蛛」は、実は「自然によく馴染み」「自然によく溶け込んだ存在」であり、一方、私達が知っている「孤独」の「寂しさ」等は、いわゆる「社会的な孤独」の「寂しさ」であろうから、「蜘蛛」達にはそもそも私達が経験しているような「孤独」の条件は訪れていないであろう。
この「孤独」について、仲間を助ける「ガゼル」の「相互性」の世界において考えてみると、「孤独」はすでに「社会的寂しさ」を意味するものの原型、とも言うべきものに転位しているであろう。
「孤独」は、「ガゼル」において「蜘蛛の絶対的孤独」から、「相互性」の「社会的孤独」に変わっているのだ。
「自然からの自由(=遊び)」という言い方で言えば、「蜘蛛」に「遊び」は無縁である。
もし「蜘蛛」が満腹なら動く必要がないから、自然に溶け込んで、じっとしていて「遊んだりはしないし、できない」であろう。
社会的な「ガゼル」は、どのようにして仲間を助けるという「相互関係」を識(し)るのか?
どのようにして「視野を群全体に広げている」のか?
この疑問に対して、生物学上の伝達物質(フェロモン)を、その答として落ち着いてしまうわけにはいかない。
いずれにせよ、視野の驚異的な展開は「人類レベルの観念的・・・世界」を待たねばならない。
あらためて微生物から、その「意味」を眺めてみる。
顕微鏡をのぞく。
そこに細菌が「群れ」ている。
みるみるうちに、八方に向かって「増殖」する。
そこに、理由はないし、また理由はいらない。
私達人間もまた、日々わけもなく「群れ」「八方に向かって世界を把握しようと膨張し」ている。
だから、そのことに理由はいらない、と言える。
なぜなら、(比喩的な言い方になるが)微生物以来の生命の「歴史(=DNA)」を受け継いでいるがゆえに、私達に、それらの理由はいらないのだ。
生命世界の在り方は、観念的な人間の営みの根拠をつくっていると言えよう。
微細な生物は、こうして、その後、虫の時代を過ごし、猛獣の時代を過ごし、草食動物の「ガゼル」の時代にやってきた。
「ガゼル」など「草食動物」の段階において、いわゆる「人間性を意味するもの」が充足されたと言ってよい。
さらに自然は、「観念・・・」を、創出し、「ガゼル」の世界に重ねたのだ。
だから、好ましい意味での「人間性」という言葉は、「観念性・・・」それこそを意味するものだ、(観念性と人間性とは同義だ)ということには、ならない。
むしろ、「ガゼル的なもの」が「人間性」の、そもそもの意味なのだ。
人間は、(あるいは「観念」の主体は)「ガゼル」に、自分の根拠を見出し、且つ見出し続けている存在である。
従って、「観念・心・精神・・・の出現を待って、そこからやっと人間(史)がはじまった」と語ったり、「それ以前は動物だった」と語ってしまっては、大いなる錯覚を私達にもたらすことになる。
以上のことから、「進歩」とか「進化」と呼びたくなるイメージだけは濃厚にが浮かび上がる。
生物を「単に分類すること」と、「進化のプロセスを描くこと」とは、「意味が違う」はずだが、ここではその区別の外側の広いイメージの世界で考えてみたいと思う。
この、「進化」という意味の好い例を取り出そうとするなら、私達が、漠然と「人権思想」と呼んでいることに思いを馳せるとよい。
「基本的人権」などといった認識や表現、そうしたものは「ガゼルの意味」を抱え込んだものによってしか生み出され得ない、と思われるからだ。
「ガゼル」が私達の「前提」(=根拠)であり、その内容は、そこまで登ってきた「進化のイメージ」あるいは「意味の進化」とでもいうものである。
だから、私達は「何処から来て?」「何処へゆくのか?」「私達とは何者か?」本当は、誰でもがそれを知っているはずなのだ。
「何をすべきか?」「何をしてはいけないのか?」人間は本当はその答を識っているはずなのだ。
しかし、振り払うべき幻影は生死をかけて複雑であり、「問題」は私達の前に二者択一を具体的に迫ったりする。
従って、先ずは自己を明らかにすることを通じてしか前にゆく方法はないと言い得る。
ありきたりで、道徳教室的な言葉等では、本当は識っているはずのことも、私達には認識し表現することはできない。
ただ、かの「アフリカ原野」の「ガゼル事件」において、人間という舞台での登場者やテーマはすでに基本的には出そろっているのだ。
「ガゼル」はすでに、一つは「自然からの自由」と、(この「自然からの自由=遊び」は「自己」の根拠であり、「笑い」や「芸術」や「スポーツ」等の起原である。
この意味での「遊ぶ」ことにおいてしか何事もはじまってはいない。)
二つは「家族の親愛」と(即ち「性の領域世界での親愛」と)、三つは「仲間への親愛」とを手に入れている。
そして、かの原野で外敵に襲われた時、仲間を救出に出た個体は誰か?
出られなかったのは誰か?
なぜ、「相互に」、重荷を感じ合うのか?
恥とは、名誉とは何か?・・・
退行してしまったものは誰か?
なお、全て(の群・さらに群の外)へと超えてゆく進化の「行く手」はどこにあるのか?
このような人間という物語に必要な基礎は、「ガゼル」においてすでに、可能性として出そろっている。
私達の「観念的な生活世界」あるいは「言葉の世界」は高度に複雑化した。
より高く登れば、より多くの「荷物」(観念)が必要だったからだ。
世に「詩的感動とは何か?」と問うことがあれば、その錯綜した生活のなかから、「詩人」たちはこう答える。
「ガゼル事件」の「相互性=社会性」(という進化のレベル=基本的に出そろったテーマ)が、
私達の基底にいわく言い難い姿をして横たわっているのだが、言葉を創出しながら、かの「ガゼル」に出会える「扉を開く」ことができたと言えた時、別言すれば、言葉(や絵や音楽)を共有し得る「扉を開く」ことができたと言えた時、詩的な感動に出会ったと言えるのだ、と。
* 絵や音楽や(詩としての)言葉は、「詩そのもの」でもなく、「詩的感動」でもない。
それらは「詩を体現しているもの」で、 いわば「詩(そのもの)」に対して、その「演技=詩(そのもの)」を抱え込んだ「舞台」の方だ、という関係になっている。
だから、「絵や音楽や詩(=言葉)とは何か?」という問に答えようとすれば、取りあえず、「詩(そのもの)とは何か?」という問と、「絵や音楽や詩(=言葉)の固有世界は何か?」という問の二つに答えなければならないことになる。
再度、私達が、「ガゼル」へと登ってきた「前提」(=根拠)から、私達は何をひき出すことができるのだろうか。
それは、私達が、「進化」への視線を常に持たざるを得ないということ、に他ならない。
私達の日々は、「ガゼル」が照射してくる「進化の意味」=「意味の進化」に、すでに、常におおわれ、また試されていて、日々そこから問い、且つ答えているといえるのだ。
従って、「基本的には、退行とか停滞を避ける」性格が、私達には「存在の前提としてある」のである。
この意味でのみ、私達は「社会的存在」だと言えるのであり、その外には決して出られてはいないのである。