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作家 藤 英代





藤 英代

「見つめる ということ」
文 ことのは 宇田川 靖二


初めて藤さんの絵を観た時、そこに描かれた木々や葉に、すぐ、「生き物の気配」のようなものを感じた。
「見えた」というのではなく、「気配を感じた」というのは、次のような理由からだ。

「存在しているのは確かだが、それは眼の前に見えている木々や葉とは、実体が異なるものが存在している」というような、そういうものの「気配を感じた」からだ。
その絵の画面は、見れば見るほど、木々や葉の姿をリアルに見せている。
画家は、その描写に信頼を置いていると、いかにもそう言えそうな描写である。
にもにもかかわらず、見えているものの実体はその木々や葉とは異なるもの、そういう背後の或るものの存在が感じられて来るのだ。

藤さんの手が、単に目の前にある物を写しとるつもりで描いていたのではなかったことは即座に了解できる。
しかし、その背後の「気配のようなもの」に、最初から狙いを定めていたのだろうか?
もし、その見えない「気配」の存在そのものを最初から描こうと意図しつつ、目前の、個物の細かい描写を重ねていたのだったとしたら、その技は、ほとんど「魔術」といってもよいようなものだ。
一枚の葉を、ただ細密に描いていることが、どうして背後の怪しい気配の存在を描く結果に通じてくるのか? その説明は難しい。

それは、徹底的に、見つめ続ける、という作業の結果であるに違いない。
しかし、どういう視線の構造があって、背後の「気配の存在」が目の前に出現して来るのだろうか?

私には、こう感じられる。
人は、どうしても背後を想い描いてしまう。
しかし、その意味は、「扉を見て、背後の部屋の中を思い描くこともできる」というような、いささか悠長で日常的なことではない。
そうではなくて、「どうしても背後が出現してきてしまう」という意味である。
むしろ、「背後がたとえ邪魔なものであっても、背後を想い描かないわけにはいかない」というような意味である。

だからこそ、藤さんの「絵」は怪しい生き物の気配、あるいはその予感といったような存在の光を放っているのだ。

私達の視線には決定的な特徴がある。
例えば、宇宙の彼方の果ての、その向う側(背後)は見ることができない、という意味で決定的である。
私達の、見ようとする意識は、大きく眼を見開くよりも、逆に、静かに眼を閉じてみると、その性格がよく理解できる。
私達の眼は、自分の内部から、かの宇宙の果てに向かって、謂わば天に向かって、一方通行に、走る。そして、向こうから帰って来ることはできない。常に私達に「正面」を向けている天からの、向こう側からの視線を、私達が代わって持つことはできない。
だから、事物の背後の、「存在」については知られているが、その背後の存在が「どんな有様」であるかを知ることはできない。
対象を「天」から目の前の「球」に移しても同じことだ。
その「球」の背後(裏側)は、知ることができない。
「後ろへ回ってみればいいじゃないか」という話では済まない。
なぜかというと、私達が「球」の後側に回れば、「今度は現れたその後側というものが正面(性)の位置に来る」というわけで、私達の意識にとっては正面の「うわべ」が先ほどと姿を変えてしまっただけだ、と考えられるからだ。
球の背後というものは、その球の内部に逃げてしまった。
その逃げた背後を追いかけるようにして、球を割ってみたとて、逃げた背後は、さらに奥の方へ逃げてしまって、現に見えたのは正面の「うわべ」の姿が、「割られた表面」に形をかえてしまったものだ、という事態になる。
つまりは、「事物には、背後があるのに、それを見ることができない」、これが私達の視線の特徴である。

私達は、生活の経験から、家の入り口に立って、その扉を前に、中(背後)の部屋をあれこれ想像したりする。
しかし、私達は、常日頃、無意識ながら、「決して背後を見たことがない視線で」見ているのだ。

私達が日常生活をおくっている時は、扉を見て、部屋の中を想像してそれで済んでいる。
日常の意識では、私達の眼に最初に飛び込んでくるイメージが、家なら家、花なら花の形を示していれば、それをそのまま受け入れて、すでに事足りている。
だが、もし、その「背後」や「全体」を捉えたいというほどの、凝視の意識であったなら、その眼は、目前の扉の姿を怪しむ他はない。
扉の背後の部屋の有様の想像、「扉の向こうに机と椅子があり・・・」という「背後」の想像は、(想像すること事態は無理のないことだが)その姿をまともに描けるかどうかという意味では、初めから無効な想像であるからだ。

だから、作家は凝視する時、扉について、「それが全く無意味な事物だと見るか」、あるいは、「その背後へ誘うであろう扉の姿そのものを怪しむか」、そのどちらかの態度しかとれないことなるだろう。
藤さんの絵には、木々や葉が凝視されつつ描かれているのだが、「気配」と形容せざるを得ない、背後の存在が現れてくる、というのは、そういう「怪しさ」の理由からだ。
藤さんの絵は、かかる「迷宮」に、視線が出会ったところで、制作されていると言えよう。


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