植物の世界 ~ 土屋祥子さんの写真から ~
文 ・ ことのは 宇田川 靖二
○ 土屋祥子さんの、植物の写真を観た。
暗い背景に、花が、双方向から差し込んでいるライトに浮き上がる。
花たちは、グラスに絡まり、ポーズをとる。
花弁の、まぶしく白い神経がデリケートな意識を誘う。
茎をかたどる緑の曲線、
それらは、かくも弾力的な命であったか。
彼方からやってくる自然の力に対して、
緑の茎が柔軟な鋼とでもいうように答えをはじき返している。
○ 花の眼はどこにあるのか?
花はどこで思考するのか?
数枚の花弁たちが、私達の「頭脳」のかわりをするのであろうか?
花の意志は、地の底において、喧騒から離れて静かに形成されるのであろうか?
かくも装い、かくも舞踊する植物たちに、情感や意志がないというなら、彼らの、まっすぐな営みの、その生成の秘密を、私達は説明しなければならない。
○ 動物である私達は、見たり聴いたりする眼や耳の背後に、「脳」という司令部を持った。
動物の、司令部の「意志」は、定住を拒否し、自らの身体を移動させて、植物の無数に、出会いまた離別することができる道を歩んできた。
司令部は、さながら列車を引く先頭の機関車のようだ。
もし車両の、1台2台が切り離されれば、身体から切り離された手足と同様、すでに、機関車や脳の支配がそこにおよぶことはない。
一方の植物は、なぜ自己の中枢において司令を発する主体の存在を、即ち脳の姿を隠しているのであろうか?
脳のかわりに、能動的な心というものを考えてもよいのだが、心の臓、それが自己の体の細部に命令を発している、その姿というものを、かの植物の世界につきとめることはできない。
動物に司令部(=脳)が、あること、そして、植物に司令部(=脳)が、ないこと、このことは、世界が、「組織体」という論理性のうちに存ることを浮上させる。
だから、原子や素粒子のレベルから、生命を経て、社会・国家へ跳躍するまで、この「組織性」をとおして問と答を探さなければならない。
○ あらためて、「私という個が居る」、即ち「私が組織体として存る」とはどういうことなのか?
私達は、自己が感じ、思考し、意志を持つ、その、「司令部」、あるいは「姿を隠した司令部」、その不思議に焦点をあてて、その生成を追いかけなければならない。
植物が全身の無言で、真っ直ぐに営み続ける有様、あるいは植物が脳(=司令部)の姿を結ばない有様、それらは、私達に、「精神」という「非実体」の存在を予感させる。
この私の、「精神」とは何か?
宇宙の存在、即ち植物たちは、「組織性」が読み解かれるのを、待っているかのように私達を誘っている。