伊藤和夫さんの絵
文 宇田川 靖二
私達はどこから来たのか?
詩からやって来たのだ。
私達の出自については、詩以外の言葉を拒否せざるを得ない、それゆえに詩と答えるのが熟慮の結果なのだといわなければならない。
詩とは何か?
詩に直接手が届くということはない。
詩は言語や絵画や音楽などを媒介に己を表現する。
だから詩という存在は「媒介的存在」なのだというテーゼができあがる。
従って直接詩を語ろうとすれば失敗する他はない。
だが、詩についての見事な叙述はあるように思われる。
先ずは、「伊藤和夫さんの絵を観れば、詩が何であるのかがよくわかる」と語ることが可能であろう。
作者は、この絵のように生活しているはずである。
私達はどこへゆくのか?
詩へゆくのだ。
始原である物質物理の世界から、生命の誕生という、最初の超越がおき、次に、第二の超越がおきて、精神の世界が生まれた。
これらはいずれも、不可能を可能にした超越なのだという意味で圧倒的である。
そして、これから私達が迎える第三の超越とは如何なるものであろうか?
それは、現在では全く不可能であると思われる、そういう性格の超越であるはずだ。
むしろ、私達が第三の超越を志向する時、
「不可能なことは何か?」という性格の探索になる。
進化のゆく手は「とうていあり得ないことだ」という感慨を乗り越えてゆく、その前方にある。
生命の進化の、意味としての最前線は、「草食動物」である。
「草食動物」は、ある時、猛獣に追われた仲間を見て、果敢に猛獣に挑んでゆく、そういう例外で印象的な、決定的行動を生み出した。
その行動は、瞬時の不思議である。
そこには、個の生(そして個の生活)への、愛着が、他者相互の空間を奔るように内包されている。
そして、「草食動物」の次の時代に私達「人」がやって来た。
私達は、進化した存在であることを自負している。
だから、私達の内部には「草食動物性」が先祖のように横たわっている、という前提が存在している。
そここそは詩の棲みかである。
存在の進化は、おそらく、一個の「個体」の苦悩が、全人類に一気に伝わること、それを将来の超越として夢見ている。
「一個の個体の苦悩が、全人類に一気に伝わるという、そんなことは不可能だ・・・」。
そして、私達とは、何者か?
ゆえに、詩人である、と答える他は無い。
私達は、先ず、異物の層深く眠り続ける詩人である。
全ての人が、実は詩人でしかありえない。
時として、そのことに気づかされる瞬間があるとすれば、例えば、伊藤和夫さんの絵をみて、自分が感応している時、それは、私達の内部の深いところで、詩人の扉を開いて、その眠りを覚ました、と思える時だ。
すでに、人であることによって、私達は詩人という進化のレベルに、本当は棲んで居るからなのだ。
伊藤和夫さんの絵 (2) ~ 宗教と芸術 ~