ことのは
ことのは7階だより
  
第1回
《ギャラリーについて》

私が中学生の頃、美術史の授業を受けている時に、次のような光景が頭に浮かんだ。
お寺の一室で、仏師と僧侶とが話をしている。
仏師は、この話し相手の僧から、過日、仏像の注文を受けていたのだ。
そして、その日、できあがった仏像をその寺に届けに来ていた。
その仏師は、仏像という作品によって、勿論何かを表現しようとしていたのだが、彼は、一体、その仏像を彫り上げることによって、何を表現していたというのであろうか。

「表現」と考えるからには、その「受け手(話の相手)」がいるはずである。
それでは、即ち、誰に、一体どんな存在に対して語り(表現し)かけていたのか?
その語りの相手がどんな存在なのかによって、その仏師が何を表現していたのかがある程度輪郭づけられてくるであろう。

「御仏が木の中に居る、それを外側にあらわにする、そういう積もりで昔の仏師は木を彫っていた」とは、その時、美術の教師から聞いた話だ。
そこには、「語りの相手とは、具体的にいま目の前に居る、注文してくれたお寺の僧だけでは必ずしもない。相手とは無形の何かでもあり得る」という、そんな内容が指示されている。
恐らく仏師(作家)は、形としては捉え難く巨きな存在、「普遍者」とでも言うべきものを想定していて、それを濃厚に、あるいは希薄に意識しながら、その「普遍者」に向かって制作(話)していたのだ。
(もし、自然性とか、時代性とか、そのような意識を超えたものが表現されていて、それらについて直接語ろうとすれば、また別な考え方を導入する必要が出て来よう。)

改めて、「(仏師の)普遍者とは何者か? そして、それが語り(作品)の中身の性格を決めている」と思われる。
いや、「語り」というより、「これが私の答です」と、仏師は普遍者に「応答していた」ような気がする。仏師、即ち作家であることは、彼が自ら抱く「普遍者に対して、答えを提出し続ける者」であるのだろう。
表現する者達は、かように「『意味』なるものをめぐって、棲息するように暮らしている人々、その仲間であろう」と言ってみたくなる。恐らく、美術(家)という世界が孤立してはいないという理由がここにあろう。

昔、辞書をひきつつ悩んだ時とはまた別の理由で、なお「普遍」のイメージが私にも、当然ながら定かなものではない。
また、私は多くの人々と同様に21世紀の日本に暮らしている。従って「普遍的な存在者」が絶対的な「神仏」の姿をとっているというわけでもない。
この際、「普遍者とは後世の人々のことだ」とでも言いおけば、とりあえずは了解しやすいかも知れない。自明にも、それは「この話題には終りがない」というほどの意味あいを持たされていることになる。
何かが一貫してもいようが、時代や場所や個々人によって、変貌もまた宿命づけられている、その「普遍者」の姿について、どこか気がかりだからこそ、美術への興味が失せることがないのであろう。

ギャラリーから、かのお寺の一室の類の片鱗を読みとることができれば、これほどに喜ばしいことはないだろう。
         
2006年5月    ギャラリー・ことのは

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