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せい熟のあとの熟成の香




<せい熟>のあとの[熟成]の香  

ゴヤ という大家の、晩年の絵がある。
「黒い絵」とか、自画像などである。
私達は今日、彼の、晩年へと続く、その名作の数々を観ることができるが、 大きな時代の波の渦中で、強い「意志力」にて作画をつづけてきたゴヤが、 晩年へ来て魅力的な落ち着きを画面に漂わせる。
積年の問題群は今もなお彼の脳裏を支配しているが、 それは、《せい熟》へ、という若き衝動からでもなく、もとより「野心」のよ うなものからでもない。
気を張る必要はなくなった。
過去の修行の経験に先ず自分が説得されてしまって、勢い他者を圧倒しよう とする、そんな気持ちは霧消した。
「ひとよりも・・・」という優越にこだわったのは《せい熟》へと大志を抱い ていた昔々の話だ。
そんなものは果実が熟れて、【熟成】の香を放つようになると、えも言われず「雑音」のように聞こえるだけだ。
こころの中で、人生という世界の《完結》を境にして、嵐は静寂にかわって果てしない。
「物理的に縮小」された「時間」、そういう自然的な「時間」の世界とはもう無縁になった・・・。

「死」という不可能なる摂理を前に、人はどのような景色を眺めるのだろう。

皆、若い頃から常に「《せい熟》へ向かって」、芸術的意志を創ってきた。
様々な観点が混在している。
従って「必ず『完成』に向かってのみやって来た」のだとは言い難いとしても、いずれは人生の「《完結》を見る」こ とになるだろう。

そうか・・・今、私の世界が、終わるのだ、・・・「《完結》するのだ」・・・。
もうあの「死」は、不可能なものとして、やって来ている。

そこから、かっての「《せい熟》へ・・・」が転じて、全く別な世界の【熟成】の香がたちのぼってくる。
この【熟成】の世界は、若い頃にはとうてい気付くことがなかった、不思議な香を放っている。

世の大家と言われる人々が自分の若い頃の修行イメージを明確に実感して、力の糧とし、 多くの他者達の中から、突出させるように自己を分離しつつ、己(おのれ)に酔ったものだ。
「いま、自分は修行が実ったレールの上を走っているぞ・・・」と。

だが、《せい熟》を追ってきた時、そこで人生の《完結》という壁に出会い、そして始まるのは、 かっての修行の日々が遠のいていき、修行を自然の流れのうちに「忘却」するということである。
意志は、《完結》を視て、何事かの了解点にたち、若き修行の「忘却」と平行するように【熟成】を始める。

過ぎ去った修行の記憶は、幾重もの「忘却」の層に沈んでいて、余計な「力み」を消滅させている。
かって他者から「自己」を区別して来たその自己感動の記憶は遠ざかった。

人々との諸々の関係が脳裏からは立ち去らないが、残る自然時間は少なく、《完結》を視た以上、自分はただきれいに 立ち去ることを考えようとしているのかも知れない。
自分が、諸関係の交差点に立って生きてきたことは消えるわけではないが、あの「修行」に耐えた時間は消えてゆく。
もし、「非自然的な・不思議時間」が心に維持されるのなら、その人に、晩年の【熟成】の世界が始まっていると言え るのだろう。

2020年4月11日   文   ことのは 宇田川 靖二
 

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