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藤田俊哉さんの絵



「FIRENZE」 50F アクリル・油彩、キャンバス 2010年

藤田俊哉さんの絵  ~ 「自然」との間合いについて考えてみた ~

私は、病院のベッドの上にでも寝起きをしているのだろうか?
それにしては、私の想像力は、嵐のように豊かだ・・・。
私の 居る場所は、他の人々とはずいぶん違っているようにみえる。
だから視線は多分私だけのものである。
しかし、私は、いま「現代に生きている人」のように、先ずは「現在の」外の自然や 人々をながめているはずだ。

ここで、窓の外を眺め、「自然」というものが私にどのように現れてくるのか、という ことを、私は多分強く意識している。
その強い意識を自覚しているに違いないのだが、結局は自分の視線が自分のものである こと、そうありたいものだ、ということが最後には浮き上がってくる。

窓の外には大きなビルの陰影があって、私の頭の中に「矩形」を切り取って顕れている。
遠くを眺めれば、風景というものもまたこの「矩形」のシルエットが提供したその内側世界に現れてくる。

ああ・・・この窓も、入り口のドアも、矩形だ・・・。
スケッチブックも、キャンバスも矩形だ・・・。
私達の観念世界は、視線の赴くところ、常に「世界というものは矩形の内部に在るものなのだぞ」とばかりに、執拗に語りかけてくる。

「自然」は私達にとって、そのように在る他はなかったのか? と問いかけると、
画家達からは、「いや、そうではなかっただろう」・・・という声が聞こえてくる。

たとえ四角いキャンバスの世界を眼の前に見ていても、もっとはるかに広大な外の自然は、 世界の存在の基礎的なものとして、この矩形の観念の内側にまで、あたかも世界の主人のような顔で、割り込んできた。
人々が用意したチューブの絵の具の限界を笑い、 自然は、画家達のキャンバスの、四角い小さな観念世界を打ち砕くように、幾枚もの自然の写しを繰り返し描かせてきた。
今も、多くの自然作家が苦闘している。
「自然はこのキャンバス上に、観念を食い破って、あふれる水のようにおしよせて来ているぞ・・・」と。

しかし・・・、藤田さんは、どこかの岐路で、その道には別れを告げたのであろう。 実は、そこは大きな自然解釈の分岐点であったと思われる。

私のキャンバスという矩形の世界には、逆に「私の観念世界しか」もともと、はいってくることができない領域である。
「自然」は、自明にも私のキャンバスの外にしか存在できない。
そのような世界として、矩形も、矩形内部に置かれた景色も静物も、赤も黒も金色も、「非自然」という観念的に構成された私の世界の内部にある。      

「自然」というものは、もとより藤田さんの絵の「矩 形の内側に入ってくることは許容されていない」。
だからこそなのだが、「自然」というもの、その住処 は、「私達の観念の外の、そのような距離に在る他は ないものなのだ」と、
私は確信をもって自然の、基礎的な驚異と不思議と いうものを語ることができる・・・。
「自然」は、この矩形世界(キャンバス)の背後の彼 方にこそ、くっきりと在る、そういうものだ。

従って、「矩形」「赤・黒・金」等による観念的構成 でキャンバスを満たし切ることが、私の自然描法に は必要なのである・・・。

2020年2月11日   文   ことのは 宇田川 靖二
 
「Large Ensemble of Flowers」 150F アクリル・油彩、キャンバス 2003年


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