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知久正義さんの絵



「新緑のあかしや」 油絵 F6

知久正義さんの絵  ~ 絵において「不思議」に出会う ~

 興味をもって、絵を眺め続ければ眺め続けるほど、「なぜだろう?」という疑問に行き着くことがある。
 そしてそれが気になってさらに絵の内部へと誘われる
 例えば、この「新緑のあかしや」という絵についてだが、
 少し、落ち着いて観ていると、興が高じてくるに従って、一体何が描かれているのだろう? と思い始める。
 絵の具をみても、つくるのに苦労した複雑な色彩があるのではない。
 緑や黄緑のわづかな階調が認められるだけだ。
 幹や枝の有様も、誰もが観たり、通り過ぎてきたほどの姿で、彼らの特別な声が聞こえてくるわけではない。
 まぶしさを伴った光に意識を傾けて追求しているのか、というとそういう特別なこだわりがあるともいえない。
 視界の内にどこか「シャープなイメージを探した」結果描いたのだ、という心理的な形跡を読み取ることもできない。
 「奇」は排除されている。
 手前中央の一本の小道に謎を託している、というほどの物思わし気な風情はない。
 何かのメッセージを込めている絵なのだというふうには、勿論考えられない。
 技術が前面に出てきているのか、というとそんな若さはすでに「預かり知らぬ・・・」。

 では、少しこだわって、この作品からこれら単純と思われる色彩を分解していってみようか。
 何かが残るなら、この絵の魅力の正体はそれだということになるだろう・・・。
 この絵から、緑の樹木を白く消し去ってみる。
 次に茶色系の幹や枝を消し去ってみる。
 そして名も無いほどの草々と道とを漂白してみる。
 わづかに残った空も消してしまおう。
 その結果「なんだ、白いキャンバス以外何も残らない・・・」
 これはいとも「妙な譬え」には違いないのだが、いかにもそんな気がする作品なのだ。

 絵の感想として漏れてくる「いいなあ」という気分の、その理由が捉えられないのはなぜだろうか?
 従って、「作為」にあらざる、そういう絵が描けてしまったのは、どういう理由からなのであろうか?

   こうして私達は、少数の絵画作品における「不思議」に出会う。

2017年5月16日   風景画展Ⅸ 於・ことのは   文・宇田川 靖二
 

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