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笹山勝雄さんの絵







笹山勝雄さんの絵
文 ことのは 宇田川 靖二

恐らく、絵の作者(笹山さん)はこんなふうに語ってもいるのであろうか。

私は妙義山を遠望するのが好きだ。
小さい頃、景色の彼方から、招くような声が届いてきた。
その山襞(ひだ)は、まぶしさを和らげながら、遠く奥行の中に姿を消してゆく。
あたかも、過ぎ行く時間を捉えることができないかのように。 

むかし、仲間と訪れた時の、夏の小川のある景色を、私はその当時、自分の脳裡に、孤独に染めこんだ。
他の少年達もいっしょにそこにいたはずなのだから、私が一人で遊んだのではないのだ。
しかし、独りでそこに居たような記憶に、いま同意するように、柔らかな川の水音が聴こえてくる。

妙義山の麓は、畑を耕す人々が住んでいて、耕された土は、淡い紫の空気を深く吸い込んでいる。
自然のままではなく、人によって耕された安寧がよこたわっている。




すこし別の風景の散策に出よう。
護岸工事のあとがある川までやって来た。
その工事の作業の様子がちらと頭をかすめる。
コンクリートは、いつまでたっても自然の色に、溶け込むようにはならない。
しかし、それなりに時を経た、落ち着きをつくっている。
味気ない人工的なその地肌に、季節の湿りや、逆に乾きを感じることができる。
この川の、この場所には、、「たゆたう水の音色」が聴こえてくる。
(その水の音色が聴こえてくるまで、描き続けてきたのだ。)

作者は、そのアトリエを訪れた人に、お茶を入れながら、こんなふうに話してもいるのであろう。

私達は、このように鮮明に推し量ることができる。
語るものがなければ、誰も語りはしないし、語る相手をイメージし得なければ、また誰も語りはしないのだ。
作者は、自分が長年はっきりと見てきたもの、あるいは自分にはっきりと見えていたものを、隣に居合わせた人に語っている。
(隣に居合わせた人とは、「普遍的な人」をも意味している。)
その語りに濁りはない。




そして、私達は、この作者のほとんどの絵に、直接「人の姿が見えない」ことに気付く。
絵の中には人々の普通の生活がある。
整った畑は次の仕事が予感される。
家々には、ひなたを避けた人々が休んでいる。
しかし、具体的に人の姿が見えない。

だから、恐らく、時は過ぎていったのだ。

作者は、誰かが、自分の絵の中に訪れてくるのを待っていた、のかもしれない。

「景色の中に、こんな人が歩いていてね・・・」という語りを、どこかでしてみようと、長い間考えていたのかもしれない。
すでに、少年時代からずっとそうだったのかもしれない。

風景の山や森が、顔の正面をこちらに向けている。
風景の顔が、ひとの気配のように、私達に対面しながら、もの語りげにしている。

それは、懐かしさの「過ぎ来し」を感じさせる季節、
そういう空気の表情だ。



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