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松方俊さんの詩を
読んで





〜 松方 俊さんの詩を読んで 〜
文 ことのは 宇田川 靖二

(1)詩「新生」(松方 俊 作)における「身体と精神」の舞台

ギャラリー「ことのは」にて、伊藤和夫個展(2011年)があった時、初めて松方俊さんにお会いした。
それがきっかけで、松方さん作の詩「新生」を読んだ。



この詩の頭から5行目、「私の瞳を刺す」と、最後の行の、「優しく私の瞳を刺す」という、この二行が作っているもの、その舞台というものは、普通の言い方をすれば「身体と精神」というものの統一の現場だということになる。
昔から、「身体」についてはわかり易いが、「精神」についてはなかなか規定できない。
私達は、みな早い年齢からこの双方の世界の存在に気づいているのだが、同時にその不思議な二領域、そして、その二領域の連繋・混交の理解の仕方に悩んでいる。
それに対しての追求の仕方は、「万物の根本は何か?」という問をたてて、「実体」を細部まで追いかけるという方向であった。
現代では主に物理科学の専門家がこの分野を請け負っているのだが、勿論終りが来ることはない。
「身体と精神」が不思議さを醸し出す、という感覚は、少年時代に芽生えるのであろうか?
「唯物論」とか「唯心論」とか、そういった言葉に出会うころの年齢にいたって触発されるのであったろうか?
いずれにせよ、この不思議さは、「万物の根本は何か?」という問とは一応別なもののように思える。

つまり、この不思議さに対しては、もっと日常的な問の場所へ逆移動しなければ答が出な
いような気がする。

(2)「日常」という場所で考える

日常の場所というのは、肉体とか身体というものが、「実体」(細胞・物質)でできていることを疑ってはいない、ということ、そして、「精神・こころ・情感・観念・魂・・など」が「非実体」であること、(あるいは「非実体」と「実体」とが混交していること)を疑ってはいない、ということ、こういう場所である。

そして、「実体」とは、いわゆる「もの」の類であるが、「非実体」とは何であろうか?
私達はこの「非実体」を探すところからはじめなければならない。
しかし、最新の物理科学の専門の畑に跳んではならない。
あくまでも、日常、家を建てるのに必要なのは簡単な「平面幾何学」に過ぎない、というような世界内部において「その不思議さ」の答を探さなければならない。
正確さという意味は、むしろ、そのように「逸脱をさける」ことである。

(3)「組織性・機能性」

ここで「緻密な組織性・機能性の存在」に注目しよう。
例えば、生体は、「緻密な組織」でできあがっている。
優れた臓器とは、その機能性が優れている、ということと同じ意味である。
人の身体は神がつくったに違いない、と表現したくなるほどの、その精巧さに出くわして、医学者が、驚嘆の声を上げる。
ルネッサンス時代は、体内にミクロコスモスが存在するとも考えたほどだ。
現代科学の粋を尽くしても、また将来的にも、ロボットでは、生体レベルには永久に到達することはないはずである。

(4)「実体と関係」及び「実体概念と関係概念」

では、ここでいう「組織性・機能性」とは、単純にいうと、どんな世界であろうか?
その理解に必要な最低限の言葉は、「実体と関係」であろう。
「組織」というあり方を「実体と関係」という言葉で語るとすれば、例えばつぎのようになる。
三人の人とか、また物があれば、ただちに三つの「実体」があり、各々三つの「関係」が成立していることになる。
「関係」もまた同時に存在している。
しかし、この「関係」という存在は「実体」ではなく、「非実体」という存在である。
この点を理解するには、概念上、「実体」は「実体概念」で、「関係」は「関係概念」で受け取る、ということを貫かなければならない。

(5)「関係=非実体」 が 「精神・・・=非実体」の正体である

ここで、存在領域のなかで、「関係=非実体」という言葉を得た。
この「関係(=非実体)」が、「精神・こころ・情感・観念・・・等」という「非実体」の正体だ、という方向がここから、予感されてくる。

三つの「実体」があり、三つの「関係」が存在している、というようなことは極めて単純な例である。
「億の実体と億以上の関係、の存在」という場合はどうか、
やはり「三つの実体と三つの関係の存在」というケースと基本的には同じレベルの話になる。

人の身体の「組織性」は、「機能性」において優れている、というところに特徴があるのだから、その意味における「組織性・機能性」を取り上げて行かなければならない。

生命は、はじめ、どんな「組織性・機能性」の世界に踏み出したのだろうか?
その原型のようなイメージを、先ずは、たどる必要がある。

(6)契約と「第三者」の驚くべき性格
ここからは、イメージがしやすい比喩的表現を用いてみよう。
最後に、比喩的表現を割り引いてみれば、思うべき着地点に到達できるであろう。

人々が驚いていない様子であるのに、私には驚異的なことだと思われる現象がある。
例えば「契約」という言葉がある。

絵を、50万円で売買する「目的」を持ったとしよう。
売る人、買う人と 各々契約者は二人いる。
 
この時、「50万円を支払いなさい」「絵を引き渡しなさい」という相互の間での、「約束は守られるべし」という声が二人の内部に起きる。
内部に起きる声を聞いて、二人は、外の「第三者」からの声だと感じる。

場合によっては、「第三者」であるその声を、誰かに委ねることがある。
「約束を守らせる」という、この「第三者」の仕事は、通常はギャラリー(画商)がその「役割」を請け負う。
もっと視野を広げれば、経済秩序を守らせている国家(権力)であったりする。
もし、私的な、ちょっとした取引の類だ、という話であれば、他人(第三者)が顔を出す必要はない。
しかし、顔を出すには及ばないにしても、「約束は守りなさい」と警告するこの「第三者」の存在は、希薄ではあっても生まれている。

こうした契約の時、契約者は具体的な人間(実体)だが、「第三者」は、謂わば「二者の意志の関係」が作る「役割」(のポスト)というべきものである。
「関係」であるから、この「第三者」は「非実体」である。

契約(あるいは規範)であるから、「社会契約」のような、政治的な大きなケースも同様である。
 
驚くべきことの第一は、「実体」の動き方しだいで「非実体」が生まれること。
つまり、新しい存在(=非実体)が生まれること。
当然、「実体」が消滅すれば「非実体」も消滅する。

驚くべきことの第二は、執行部(執行権力)が生まれ、これが国民を支配する関係、即ち、存在の主従関係、支配被支配関係が生じている、ということである。
国家をイメージしてみれば、この「第三者」は、「指揮者=司令部」=国家権力、の集合をつくる。(→ 人で言えば「意識」「意志」など)
その内実である国民達は、被支配の関係に置かれることになる。(→ 人で言えば「意志」によって動く手足など)
  
さらに驚くべき第三は、この司令部=ポスト(役割・関係)は、具体的な人によって担われるという点である。
先の売買契約では、ギャラりー(画商)、国家で言えば「田中総理大臣」(以下公務員群)である。

この時、「第三者」(司令部)のイス(ポスト)に具体的な人間が座るということ、具体的な人(実体)が、この「第三者」(関係=ポスト)の仕事をこなすということ、謂わば「執行権を田中総理大臣が行使する」ということ、このことが可能である、ということに対しては、私達は実に驚かなければならないことだと思われる。
なぜなら、ここでは「実体と関係(非実体)」が統一されている現場が作り出されているからである。
この、「田中」の存在と行為は「実体」であり、且つ「非実体=関係」であると言えるからである。

「第三者=司令部」は「非実体」(ポスト)であるが、ここに座ってポストを担うのは千差万別の個々人である。
彼(=個である「実体」)が、田中でも鈴木でも(ニュアーンスは変わるが)十全に役割をこなすのは不可能である。
そして、外に向かった「意志」は、田中の方向であれ、鈴木の方向であれ、全存在の行方を決めてしまう。

(7)「実体と関係」の図示

この「第三者」(司令部)は「全く新しい存在の誕生」を意味する。
存在が「湧いた」のである。
それは、主人・支配者として誕生したのであり、具体的な個人が担うことによって、自己原因という存在が誕生したと言い得る。 
この「第三者」は「実体」が創出したもの(=「関係」という存在)である。
*この「関係という存在」という時、この存在は関係概念で受け取られた「関係存在」だ、というふうに理解されなければならない。
その「第三者」の、且つ具体的な個人が、その内側から世界を観れば、「私は生まれた。私の内側から湧いてくるものがある・・・」という実感が起きている。

このように、その実感の担い手には、具体的な「個的実体」が必要である。
しかも、その「個的実体」は、「実体」達=「実体世界」を目的物のように動かすことが可能である。
A氏とB氏が契約をしたというケースでは、以下のようになる。

図示すれば、第1図の、左の三角の頂点は「ポスト」(非実体)だが、右のそれは「C」という具体的な人(実体)=例・田中氏がその役割を担っている、ということである。




「A・B」の移動の法則と、ここでの「C」の移動の法則とは、「C」が「イ」と統一を作っている
という意味で、レベルが異なる。
即ち、「イ+C」は「A・B」を、目的物として移動させることができる。
田中総理は執行権によって国民を動かすことができるのである。
  
生物という存在は、主体的で能動的な存在だという場所にやってきたことになる。 

「関係」と「実体」という、概念上の区別を、ここで整理すれば、第2図のようになる。



「線」は「関係」を意味し、「○」は「実体」を意味する。
「関係」は「実体」がなければ存在はしないし、「実体」は、己がいるところに「関係」が即時的に伴って発生することになる。
従って、当然ながら、異なった存在なのだが、お互いに、相手が必要な存在である。
「実体」と「関係」はその質が様々である。
親子関係もあれば、ただの集合のような関係もある。
ここでは、上述のように、「第三者」を生み出すような関係(組織)を取り上げているのである。
繰り返すが、「関係」と「実体」は、ここでは、物理科学の「存在の根本」の世界を意味しない。
以上は、あくまでも、私達が抱き続けている日常レベルの疑問を解こうとする作業なのである。

(8)存在の三層と「支配・被支配の関係」、及び「観念の世界」

存在の第一層と第二層、そして第三層との関係には、謂わば主従(=支配・被支配)の関係がある。
宇宙的な視野で見れば、以下のとおり、
㋑「物質物理」の世界(存在の第一層)
           生命の誕生(第一革命)
㋺「生命」の世界(存在の第二層)
           精神の誕生(第二革命)
㋩いわゆる「精神」的世界(存在の第三層)

これら㋑㋺㋩があるが、これらは次のとおり顕著な主従(=支配・被支配)の関係を作っている。
㋺生命は、㋑物質を目的物化でき、㋩精神は、自然(=㋑物質物理と㋺生命)を目的化できる。
これら㋑㋺㋩は各々法則性が異なる世界なのだ、ということであり、二つの謂わば「存在革命」が各々を隔てているのである。
「実体」を目的物とした司令部は、
①自己が「実体」を必要とした存在であるにもかかわらず、
②目的物である「実体世界」を、例えば知覚を作っている細胞諸器官の世界を、一部だが支配することが可能になる。
例えば、山河を司令部が想い描けば、脳裡に現れてくるようになる。
この一部支配は連結してゆくことができる。
(見る→イメージをつくる→手足を動かす→地面を掘る→土地の姿を変える→私が作った私の土地を私が見る→土地は私の一部だと感じる・・・・・ = いわゆる、「主観とか精神とかの、物への投映」・「物象化」ということ)

従って、見える世界を例にとれば、次のように、①②二つの世界が存在する。
①私達の、外の条件に規定されながら、目に見えている客観的世界。
こちら側(生体側)の事情(=人の主観の事情)ではどうにもならない大部分の世界。厳密に言うなら、見えている世界のさらに背後の世界。
②自己の主導によって、勝手に目に浮かべられる世界。
且つ、連結して働きかけられる範囲の内部世界。
この二つが存在する。

ふつう、①は「現実の世界」、②は「観念の世界」というふうに呼ばれているが、この②の内実は、「イ+C」が、実体「A+B+C」の世界を動かしてはいるのだが、しかし、②の内実は、「自己」の生体外にある①の実体を直接相手にしているのではなく、イメージを媒介にして、主観を投映し、その結果として①の実体が動かされるのである。
②の「観念世界」に現れる山河(のイメージ)は、①現実の山河ではなく、「自己の生体内部」の実体「A+B+C」に限定された世界であり、謂わば「関係存在・内・山河」とでも規定することができよう。

(9)「第三者」の例

様々な例を考えてみよう。

鳥の群や魚の群・・・群の「司令部=第三者」は存在しているような、存在していないような・・・というふうに見える。
「司令部=第三者」形成の前段くらいの存在状態であろうと考えられる。
植物・・・・・・・・細胞群がつくる形成過程としての「第三者=司令部」はあるのであろうが、その能動的な姿をみることはむつかしい。
少なくとも、動物における意志のようなものは当然ながら存在しない。
蜂や蟻の集団・・・・組織性や機能性はかなり高くなった集団だが、「第三者=司令部」は、どこで誰が担っているのだろうか。
一定の内部集団が、謂わば集団指導体制としてあり、さらにその内部で分業が形成されているということなのかもしれない。この意味では、女王蜂・女王蟻もまた一種の被支配者的役割なのであろう。
犬や猫・・・・・・・犬や猫までくると、「情感」が「第三者=司令部」の下層として生じているように思われる。
この「情感」という場合の「司令部=第三者」はいよいよ「非実体」という存在として象徴的である。
「情感」は第一図と第二図の「イ」であるが、その内容を実感するのは、「C」である。
勿論、「C」は、担うべき質の良さを獲得している進化した神経・細胞群であることが必要である。

(10)「第三者」を担う「実体」の意味

以上のような事例は、契約が「第三者」(執行権力)を産んだ、という比喩からはじまった。
私達の身体の諸器官や、植物の細胞達や、蜂や蟻などは、 いつ、どこで、そのような契約を結んだのだろうか?

私達の日常では、契約の成立というものは、ふつうわずか数秒の出来事である。
数秒間の言葉を交わせば、「約束を守れ」という命令者(=第三者)は出現する。
だが、身体の諸器官や、植物や、蜂や蟻などの例ではそうはいかない。
今から遡って、数十億年間という長い射程でイメージ化してみなければならない。

私達の身体の諸器官達は、お互いに、 「自分の役割を果たすかわりに、各々十分な栄養を受け取ることができる」という契約をどこかで結んだ。
このことは、「第三者」たる執行権者を、関係(ポスト)という存在として創出したことになる。
契約を守らせる「第三者」を形成したが、その「第三者」の仕事を担うべき具体的な存在が必要である。
私達の諸器官達は、結局、脳細胞を選び出してその「第三者」のポストに据えた。
(据えられた脳細胞は「朕は国家なり」の風景を見る立場におさまることになる。)
「関係」(ポスト)は「自己」にふさわしい「実体」(細胞)を探し出したのだ。
この経過にどれほどの時間を要したのか?
またどういう順番で進行したのか?
詳細は不明であるが、根本的な意味としては、数十億年間、哺乳類に限っても数億年間という自然時間の中で、その契約を形成し、具体的にその仕事をこなす「実体」(脳細胞)を設定し終えたのだ。
この比喩的な言い方は、私達が現在持っている知見が不十分なことを示してはいるが、架空の話だというわけではではない。

(11)「私(主体)」という実感は架空を生きている

ここで、語を整理すれば、私達=主体は、「実体と関係の統一的存在」なのだと言い得る。
そして、この主体の中身は、即ち、「自己」とは細胞諸器官のつくる「第三者」(司令部=執行者)が「実体」を伴ったものなのである。
「第三者+実体」が観ている、この風景は、主体たる「自己」が、「私の内側から湧いてくるものがある・・・」という実感を創りだす。
これは、あくまでも、二者(=「実体と関係」)を前提にした実感である。
しかし、ここで、二者(「実体と関係」)のうち「一つだけを取れ」という要求に答える必要がでてくる。
この実感は、二者(=「実体と関係」)のうち一方の「実体」(=細胞諸機関)が基底を担ってはいるのだが、もう一方の「関係」という存在が「私」という主体(第三者=支配者)の位相を担っていて、二者(「実体と関係」)の切り離しはできない。
切り離しができないにもかかわらず、あえて「一つだけ(「関係」だけ)を取った」結果、この「私」(=主体=支配者)は「実体に先立つ」というふうに意識(実感)されることになった。
二者のうち「一つだけ(「関係」だけ)を取った」結果、「実体に先立つ」=「私は精神的な存在である」と、「非実体」を「実体」より優位に考える他なくなったのである。
しかし、その「第三者」たる諸感情というもの、それは、あくまでも、当の「第三者」(=主体)を形成している土台(=「実体」)が、即ち「神経細胞諸器官群」が、担っている。

「実体」(=細胞諸機関)がその実感の基底を担っていることからすれば、、また「実体と関係」の、そもそもの在り方(=普通の感覚)からすれば、「一つだけを取ることができないのに取った」という認識、その「私は精神的な存在である」という認識(あるいは意識)は、まさに、「架空の話だ」と言わなければならない。
かくして、私達は「架空を生きている」という意味を持たされた存在だと言える。
本当の在り方が「架空の在り方をしている」、あるいは「架空の在り方」が本当の在り方なのだ、と言ってよい。

(12)言語認識によって深まる「自己」

この「第三者」が、精神的な「自己の世界」というイメージに結晶してくるには、言語的な「自己」の世界を位置づけてやらなければならない。

言語への飛躍が果たされたということはどういうことであろうか?

例えば、人が「AとB」を同時に観ることは物理的にはできないことだ。
この時、同時に観た!としたら、幻想を観たことになる。

この「同時化」による幻想化が積み上げられると、人は膨大な「関係世界」を認識として獲得することになる。
即ち、「高度な抽象の世界」を手にした、ということができる。
この大事業が果たされるためにも、担い手として優れた脳細胞群が要求されるはずである。
(事態をより正確に言えば、全身の細胞群が協働的にかかわっているような話であろう。)
高度な関係世界を人が入手できたということは、「自己が関係世界上の存在である」ことを理解するということになる。
しかし、先ずは、生体内部から観た「第三者」として「自己」は居るのであり、それは中心的であり、基礎的なものなのである。

一方、その「自己」は、生体の外側から規定される社会的(役割的)「自己」をも理解することができる。
この二つの「自己」を基本的なところで担うものは、勿論「実体」である(神経)細胞諸器官である。
この二つの「自己」を一つの「自己」として担うものもまた同様だと言うことができる。
そして、この二つを、独立存在として扱うことも、主体(=第三者)としては可能であり、またこの二者を関係付けることも可能である。
こうして、「自己」は深まりをみせ、広がりをもみせる。

(13)一体者の「一」 ・ 統一の「一」 ・ 「一人の詩人」

以上の、謂わば「組織」や「機能」の話は、その後すぐに、以下の疑問にとらえられる。
㋑「関係」と「実体」はどのようにくっついているのか?(統一されているのか?)」ということは、存在感覚の理解として特別な問題を残していると思われる。
どうやって具体的な脳細胞が、脳という「関係=司令部」(ポスト)を担っているのか?
勿論、二枚の紙を貼り付けたような在り方はしていないはずである。
*例えば、映写機とスクリーンの因果関係と同様に、細胞状態と映像状態との因果関係総体が細部にわたって説明できるのではないのか?と言えば、そんなことはない。
ここでいう「実体と関係」とは、「実体相互」の因果関係が成り立つようにはなっていないはずである。
なぜなら、「実体」は一度「第三者を形成する超越」を経なければ、「非実体」の世界(例・気分や情感)に出会わないことになっているからである。
そういう「媒介項」が介在している。
だから、「直接的な因果関係」は成り立たない。
「存在の第一層・存在の第二層・存在の第三層は、各々法則が異なるのである」。 
→(9)を参照

病院でもらう薬のレベルは、第一層・第二層の法則に従う。
薬を飲んだ後の気分の世界は第三層の法則の世界だということになる。
各々の法則が一部重なりはしても、全面的に重なるということはない。
薬が効いてはいても、気分にドンピシャと重なって効いているわけではなく、往々にして(薬と気分との間に)かなりのズレ(軋轢)を引き起こす。
㋺そもそも「実体」と「関係」とを全ての人が分けて考えているという、そのこと自体が問題にならないのであろうか?

*一般に、認識として、全ての人が二者を、あるいは二者に分けて考えていれば、全ての人に対してその様に扱われるし、扱い自体に問題はないといってもよい。
ただし、「世界で、この二者は本当に別な二つの存在領域として存在している」とまでは言うことができない。
「その様に扱う」という意味は「架空の話だということは承知の上だ」、「そう解釈しただけだ」という意味だからである。
「二者に分けて扱うのが架空の話なら、本当はどうなっているのだ?」という疑問が、すぐ後につながっているはずである。

以上の問に答えようとした時、それらは以下の疑問に置き変わるようである。

1、主体という「一体者」を想定する時、この「一体者」の「一」を、私達は知っているのであろうか?

2、「統一」という言葉は聞き慣れているのだが、この「統一」の「一」を、実は、私達は知らないのではないのか? という疑問を抱く。
(別稿にゆずる→<*「鏡・メビウスの輪 について」へ>**「11・船山佳苗・湧出 」及び「6 石田貞雄さんの絵を観て考えたこと(1)」を参照。)

いくつかの概念をもって、分解が可能だと解釈ができても、実際にはそんなことは有り得ない。
彼の「身体と精神」が、一度二つの領域に分解されてまた一緒になった、というわけでもないし、「第一層・第二層・第三層」とが別々に分かれた後に再び張り合わされたはずもない。
この「一」は、病院のベッドに横たわる、「一人」の詩人そのものなのだ。

参照→エッシャーの絵・・・メビウスの環を観る視線


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