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作家 孫内あつし





孫内あつし

「絵と理解ということ」
文 ことのは 宇田川 靖二

孫内さんは、「クレヨン」で自分の「少年時代」を描くという、めずらしい画家である。
その絵を見る時、「クレヨン」に重きをおいても、「少年時代」に重きをおいても、意味は同じ事になる。

それは次のような事情からだ。
「油彩えのぐ」や「水彩えのぐ」を使用して、丁寧に塗りあげた「絵」を、私は長年幾枚も観て来たが、孫内さんのクレヨン画ほど、作家の「思い」というものが、材料であるクレヨンにまで乗り移ってしまった例を他に知らない。
作品の、クレヨンそのものにも、クレヨンで描かれた古き家々にも、また、夏の日光の変化にも、この作家本人の、その時々の忘れえぬ「思い」というものがそのまま溶け込んでいる。
その「絵」に触れさえすれば、作家がどんな「思い」を込めて、その時々の世界を眺めていたのか、そのイメージを作るのは、実に容易いことだ。
意識的であるとは限らないが、恐らく誰もが識っている、少年時代特有の、「共通した思い」を、その絵から豊富に感じ取れるからだ。

では、「少年時代」とは何か?
そして、「少年時代の思い」とは何か?
それは、勿論、様々であり得る。
しかし、ここでは、少年が家族という単位から、その外の社会という世界に出る時に遭遇する様々なイメージ、というものに主眼をあてよう。その舞台が孫内さんの絵における「少年時代」だといっても、的が大きくはずれることは無さそうだ。
そして、そこで出会った他者(世界)を見つめる時の少年の、意識的な、あるいは無意識的な思いというものが、謂わば「少年時代の思い」なのである。

さて、どのように考えて行こうか?
絵は畢竟、他者(世界)がどのように見えるのか、あるいはそれをどのように見ようとするのか、他者(世界)をどのように理解しようとするのか、ということであろう。
少年が他者(世界)を見るとか、理解するとか、ということはどういうことをいうのだろうか?
大人達から、少年が「あのへんには近付いてはいけないよ」と言われたとする。
「近付いてはいけない」という禁止に、「なぜだ?」 と少年が反問して来るのは、大人達から見れば、ある意味で、過激な「思想・感性」だ。
大人達から禁止されれば、大人達にとっては当たり前のことであっても、「どうしてあそこに近づいてはいけないんだ?」等々という疑問に少年達は悩むことができる。

もし、その他者(世界)を、「見る」とか「理解する」とかについて、スタートとゴールがあったとしたら、それらはどんなふうに考えられるだろうか?

スタートは少年時代の、理解も無理解もまだ知らない、「どうして?」と「反問」することができる状態だと言ってよいかも知れない。
そしてゴールは、恐らく、他者(世界)と、自分が一体になったような時であろう。他者が完全に自分と入れ代わった時に、他者を理解する、というその意味が、頂点に達する。
ゴールの状態の出現は、苦しむ子供に、母親が、「代わってあげたい」と願うような場合で起きることが考えられるが、しかし、話は、「理解」ということであるから、勿論、愛情の側面だけでは問題は完結しない。

そして、私達の現在の社会の「思想・感性」は、このコースのどのあたりに位置しているのだろうか? 
その位置とは、孫内さんが、クレヨン画を実際に描いている、今日の時代の話だ。

まず、ゴールの状態だと思われる、「他者と自分(主体)が入れ代わる」という、その遥か前段に、「他者(客体)相互が入れ代る」という段階があると考えてよいだろう。
(勿論、観念的入れ替わりということであり、創造能力の話である。)
その際、他者相互は、「異なる存在どうしの入れ替え」であることが前提である。
「異なる存在相互が、入れ代る」ということが可能なのは、商品交換のようなのが典型である。
そこには「等価」とか、「同じ」とか「平等」というような性格が同時に生み出される。

私達が「平等」という言葉を使い得る時は、従って、入れ代わり可能な時でしかない。
「大統領」は入れ替えを前提にしている言葉だが、「君主」「臣民」「先生」「生徒」「男」「女」「教祖」「信徒」は入れ替えを最初から予定していない言葉であるから、これらこそは、単独で使用している限り、「差別を受け入れた語」と言って、まあよいようなものだ。
ひとりひとりが異なる存在であるのに、「人は皆同じなのだから」「同じにするのが平等だ」というのは、ここまで考えて来た「入れ替え可能かどうか」という筋立てとはそもそも違う話になる。
当然ながら、「入れ替え」のイメージとは、人というものが自然的交流とか社会的交流とか、そのように情報を介して相互につくりあっている存在だという観点からやってきている。

さて、私達が、ゴールに向かって、どのへんに位置しているのか、ということが大体明らかになってきたように思う。

孫内さんのクレヨン画には、その他者(世界)を理解しようとして、充分には及ばないまま時を経て来た、或る感情がしばしば描かれている。
それは、作家が現在の年齢になっても、そのまま心のどこかにまだやり残している宿題のようなものになっていて、その息遣いともいうべきものが画面風景に、風情のように漂っている。

故郷に帰らんとするものの、途上という、数々の思いは、「クレヨン」になって孫内さんの「絵」に凝固している。


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